日々の雑記

daily thoughts

07/26/17

孤独について 

 

 思考とはかくも孤独な作業である。それはまるで暗い森の中をお菓子の家を探して歩くかのような、耽美ながらも孤独な過程だ。時に、お菓子の家を見つけて一かじりしようとした瞬間にはそれが幻だったことに気付く。こうした作業の繰り返しが思考なのだが、我々はふと自らが孤独であるという事実に気付く。それに気づいたときには、大きな針を突き刺されるかのような、ゆったりとして、それでいて鋭い痛みを感じずにはいられないのだ。当然こうした人々ばかりではない。お菓子の家を探そうともしない人々、そもそもお菓子の家など存在する訳がないと断ずる人々、お菓子の家を探すことにあまりに夢中で自分が一人なことにも気づかないで進んでいく人々は確かにいるだろう。しかし、確かにお菓子の家を探す過程で孤独なことを自覚し、ずぶずぶと針が自分の中に沈むような痛みを感じる種の人びとが私を含め、いるはずである。そうした人々にとって必要なものとはなんであろうか?それは寄り添ってくれるものである。おそらくある種の人びとはそれが愛に関連する何かだと言うだろう。孤独を感じたときには同じような他者に寄り添ってもらえば良いと。だが、こうした考えは虚構である。そうした他者が自分と同じお菓子の家を探しているとどうして言えるだろうか。彼・彼女はバタークッキーが嫌いでさっぱりとしたフルーツを好む人間かも知れない。そうした虚構を信じ、恋人・愛人なるもので思考の孤独さを補おうとする時、その先には失望と更なる孤独がありうる。他者は他者であり、他者に依存する際には不確実なデッドエンドの公算が少なからず存在するのである。そうしたデッドエンドにぶつかったとき、どうして我々の様な種の人間が孤独に耐えることが出来るだろう?我々が寄り添うべきは個々の人間ではないのだ。それは、共有するビジョンは違えど、それを通じて繋がる事のできるアーティファクトに他ならない。それこそが文芸である。文芸とは、まるでレトリックの様なものである。各々が夢見るものは違うが、空虚なレトリックを通して、むしろ空虚なレトリックだからこそ、それを通じた不等価の連鎖が形成されるのである。トランプ大統領の「再びアメリカを偉大に!」こそはなんら具体性があるわけではないのだが、それを通じて各人の偉大なアメリカが彼らの中に想起され、繋がるのである。文芸こそは森を歩きながら孤独を自覚する我々が、それを通じて繋がることで孤独を紛らわすことのできる唯一の手段である。そこには、具体的な何かが存在する訳ではないが、それを通じて同様の誰かが同様に孤独を感じているのかも知れないという事実が想起されることは、我々の孤独を慰めるには十分なものがあると言えるだろう。

 

 他者を信じることとは、とても危険である。自分の脆弱な部分を他者にさらけ出すことは孤独を大きく慰めてくれるが、その他者が真に信用に値するかは判断することができないからである。現実世界における彼らの見せかけは非常に似通っている。例えば、他人の話を聞くという行為は、彼・彼女の信頼を大きく得る行為であるが、その内実は大きく異なるのだ。ある人は彼・彼女に共感する。彼・彼女が体験した苦しみ・悲しみ・辛さを(自分の尺度であるとはいえ)可能な限りで理解し、それを追体験し彼・彼女との、ある種の精神的な同化を試みる。そうした行為は、閉じられた精神の脆弱な部分の開放を真っ向から受け止めるような行為であって、彼・彼女は同時に話をきいた人とある種の精神的同化を行わざるを得ないのだ。一方で、話を聞きつつも共感しない人間がいる。そうした人々は話す相手が脆弱な部分を開放しながらも、ただ見ている。こうした人々は二種に分かれる。意図的に脆弱な部分を開放させ、それを利用することで相手を自分の意思に従属させる手段として使う人々と、相手が脆弱な部分を開放しながらも、それにある種の精神的な同化を行うことが出来ない人々である。この種の人びとは相手の脆弱な部分の開放を受けるという意味で自らを、それの開放先という手段として扱うのだ。前者は、分かりやすく自らへの従属への手段としてこうした脆弱な部分を用いるがために、人が脆弱な部分をさらけだした事のダメージは、(依然として大きいが)比較的少ない。後者は、本人がそうした純粋な悪意を有する訳ではなく、従ってより精神的な行う人々との区別がつきにくい。それ故に、ある種の人びとはこの種の人びとに脆弱な部分をさらし続け、ある日、自分が空虚な何者かに脆弱な部分をさらし続けていた事を知るのである。自分の中でのずっしりとした辛さ・絶望・悲しみをこうした人々に晒すリスクとそれにより発生した彼・彼女への信頼は、彼・彼女にとって何気ない日常における一ページなのかもしれない。この感情の非対称性を知った時の絶望は人から、お菓子の家を探す行為に対する意欲を奪ってしまいかねない。そして恐らくであるが、この種の人びとは存外に多いのだろう。LinkinparkのChester Bennington氏は去る7/21に自死を選んだ。だが、人々の反応は、彼の楽曲に対する自らの思いと感謝の気持ちとRIPの三文字であった。彼が何を考えどうやって自殺に及ぶまでの絶望・悲しみに至ったのかという考えに及んだ人間がどれだけいただろうか?こうした人々と先の述べた種の人びとを見分けることはおおよそ不可能であるから、我々は他人に脆弱な部分の開放を行うのでなく、文芸を通した開放を行わねばならないのである。なにせ我々の様な種の人間は、常に孤独感の慰めを行わなければお菓子の家を探す意欲を失ってしまうのだから。

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